悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

What A Day! 8月11日山の日


30年以上前の話だ。すばらしい晴天にめぐまれた奥穂高岳の山頂で、私は南側にそびえる岩塔を指さし「あそこにいきたいです」と、思いついたままを口にした。顧問の先生から返ってきた言葉は「お前バカか?」だった。

それが、高校生で北アルプス登山した時の思い出だ。

 

1年弱前、これからの人生プランを考えたときになって急に、そのときのことが思い出されたと同時に

 

「あ、これ人生の宿題じゃん」

 

と、ぽっかり思いついてしまった。ジャンダルム、または大キレットに行く。登山経験は(クライミングに移行したことで)とっくにストップしており、最初は再開する道筋すら思いつかなかった。Googleキープに「行くための道筋は?」とメモしたのが、はじまりだった。

 

そこからの展開は、まわりだしたら早かった。登山経験豊富な60代の先輩二人との親交が再開した。近場のハイキング、自主トレとしての登山、減量とランニング。そして8月10日の夜、私は涸沢ヒュッテに滞在していた。

 

天候その他さまざまな条件で、翌日のジャンダルム行はむずかしいとわかっていたが、諦めきれなかった。万に一つ、登れる可能性があるかもしれなければ、奥穂高山荘まで上がってみたかった。「まあ、山荘まで上がってその時の状況だな」と先輩方は間をとってくれた。

 

翌朝は早く出たが、小雨模様だった。早くも下ってくる登山者たちに「奥穂高には登ってくれるなと小屋で言われた」と聞かされた。孫を連れたおばあちゃんクライマーに元気をもらった。稜線の山荘にたどりつくと、雨風は強まり、待つか下るかの判断を留保している利用者たちでごったがえしていた。

 

私達もテーブルの隅を見つけて荷を下ろした。予定していた縦走のコースは当然却下で、涸沢にまた下るのは決定だ。では今日のうちにどこまで下るか、何時までここで天候回復を待てるか。ストーブが恋しいほどの寒さだった。

 

テーブルの反対側に、同じように涸沢から上がってきたパーティが荷を下ろした。昨日テントサイトで見かけた若者二人と、小学生の女の子だった。二人はいとこ同士で、きけば、なんとジャンダルムへのピストンを予定していたという。二人は3年前に、少女の兄を連れてきたが、強風で途中敗退したらしい。1人が天気レーダーを見て、台風が発生して天候は下り坂とキャッチした。

 

情報交換の会話が弾み、お互いの状況もみえた。明るく話しやすい若者たちだった。1人は関東のクライミングジムにも通っていて共通の知人もいた。ガスはまだ深いが、雨はやみ風は弱まった。私は「奥穂高岳には行きたいです。それで、願わくば、ジャンダルムをひと目みたい」と絞り出した。先輩は同意しつつ、「(ジャンダルムを見るのは)無理だよ」と言った。若者たちはスリングとカラビナで、少女をサポートする準備を整えながら笑っていた。

 

最小限の荷物を私が背負い、奥穂高岳を空身でピストンすることになった。奥穂高岳取り付きのはしごやチェーンの個所では、数十メートル先も見えなかった。でも高度をあげるにつけ、ガスが晴れてきた。先をいく先輩が私の名を呼んで「あそこに見える稜線の続きがジャンダルムだよ」と指さした。

 

ガスがスピードを増して厚くなり薄くなり、ジャンダルムの影が見え隠れしてきたとき、私は泣いていた。見えてもどうせ行けないんだ、記念に一枚なんてぜったいに撮らない、来年またこよう、泣き顔を見られないようにしようとこらえていた。

 

そのとき、小躍りするような若者たちの声が聞こえた。「すげー!」「今しかないじゃん。これ今でしょ」「やったね」そしてこういった。「おとうさん、行こう!」そう話しているうちにも、雲は流れ、稜線のラインは明らかに明るく見え始めていた。だれも予想していなかったほどに、天候は回復してきたのだ。

勢いに押されたように「おお、行こう」と先輩が応じた。

 

私は奥穂高の山頂を踏むことも忘れて、彼らの後をついていった。最初から難関『馬の背』だ。若者の1人はスリングとカラビナで少女と体をつなぎ、「大丈夫だ」と少女を励ました。こんな熟達者向け、難関といわれるルートを、彼らは自分たちの経験を信じ、おそらくは動画でそうとう予習し、娘と一緒に越えると決めてチャレンジしているのだった。

 

先輩の1人はさまざまな状況から、そこで待つと言った。もうしばらく進むと、もう1人も「私もここまでにする。リカちゃんを頼む」と若者に声をかけ、「荷物はどうする」と訊いてきた。私はペットボトルに半分の水と、カメラ代わりのスマホと。持っていくのはそれだけだった。

 

時に少女をサポートし、時に「リカちゃん、大丈夫ー!?」と声をかけられながら、私も進んだ。技術的、高度的には問題なく進めた。一か所だけ、ノーロープでこの高度感か、と慎重になった。しかし彼らの明るさとの共存のほうが勝った。

頂上の、天使のプレートが見えた。「もう天使が(天使の姿に)見えるよ」と私が言うと、1人が私を振り返って「あ、でも僕らの後ろにも天使がいるよ」と笑った。

 

ジャンダルムのてっぺんで、若者たちは大はしゃぎだった。相変わらずガスは流れていたが、遠く稜線が見渡せる瞬間もあり、先輩の祝福する声も届いた。これは後になって若者が語ったことだが、自分だけならどうとでもなる、でも我が子と越えるのが格別なんだと。少女も最高の笑顔で、父親のカメラに応じていた。「なんて日だ!」と1人が叫んだ。

 

彼らはちゃんとわかってて、奥穂高のてっぺんで声をかけてくれたんだった。ジャンダルムをピストンするという案は、先輩には受け入れてもらえなかったものだった。「だって行きたいの伝わってきたもん。だからおとうさん行こうって言ったんだよ」

 

ああそうだ、先輩方が待っているんだ、今日は下れるところまで行かなければと思い返した。1人で戻れる、『馬の背』もルートファインディングできる。「じゃあ私行くわ」と声をかけると、三人はさっぱりと挨拶を返してくれた。

1人でもどる難関路も格別だった。ミニマムな装備で1人進む、というこれからの方針と、もっといえば人生の在り方と重なった。ここでしかありえない風景を、その時々の状況に応じて、一期一会の仲間の力を借りて進んでいく。

途中で言葉を交わした二人組に、ひとりで『馬の背』にかかろうとしているのを驚かれたが、まあ私の年齢や風貌からして当然だろう。でもきっと、ここが自分の分岐点になるなという思いがあった。私はこの道を、望んで1人ですすめる。それが強みだと思える。

 

その日は14時間行動で、涸沢に戻り徳沢キャンプ場で一泊した。翌朝は、天候の悪化と競争するように上高地に下り、午後には大雨の静岡に戻った。What a Day、いやDaysというべきか、私はなんていう3日間を過ごしたんだろう。きしむ体と、目の前の日常とともに考えている。