悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

エンジェルフライト 国際霊柩送還士(佐々涼子)


>「弔い損なうと人は悔いを残す」悲しみ抜かなければ、悲嘆はその人を捉えていつまでも離さない。

著者 佐々涼子の文章だ。本書は、国際霊柩送還という耳慣れない分野での、日本の先駆的な会社を追ったノンフィクション。

上記の文章を読んで、個人的な話になるが、私は私自身の父に思いをはせた。

このあとは私の思いなので、興味のないかたはここまでで。

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父は長く病んでいた。大学3年のとき、父の病状が安定しないのをおして、私は2週間ほどの予定で海外に出かけることにした。

出発前に帰省して会いに行くと、父は(どうしてお前がいるんだ。呼ばれたのか)という表情で激しく動揺した。私は、父さんが元気でいてくれるから、安心していって来られるのだと【嘘をついて】父を安心させ、一晩付き添ったのちに予定どおり出発した。

滞在先で知らせを受けて、とんで帰ってはきたものの、父はすでに骨に還っていた。会えない覚悟はしていたつもりだったが、こたえた。骨壺をあけて骨を見たいと言ったら、母はとんでもないと言って取り合わなかった。

私は弔い損ねてしまったようで、それはずいぶん後をひいた。とんでもないときに涙が出て困ることが数年続いて、徐々におさまっていった。


(以下、>は本文からの引用)

>私には実感がある。悲しみをくぐり抜けた時、亡き人はそばにいて励まし、力を与えてくれる存在になる。

>死のショックと悲しみという激しい感情をくぐり抜けたところ、もっと心の奥深く静かなところに、外側を探してもあれだけ見つからなかった人が、心の奥にちゃんと存在する


父は、お前たちを見守ると書き残してくれていた。

私は当時、競技スポーツに衝かれていて、母に卒業後も続けたいといった。母はしぶったが、おとうさんはまだ話ができるころに「やれるところまでやってみょうや」と言ってくれたというと泣き、もう反論しなかった。


私は競技前に、儀式をするようになった。

海外の公衆電話で父の死を知った時の、激しい動揺や押し寄せる悲しみを、あえて追体験する。体が重くなり、どこまでも落ちていくようになった。そしてそのつらさが底を打ったときに、静まった肚の底から、ふつふつと闘志が湧いてきた。たぶんそれは、私なりの弔いの続きだったのだろう。

父ができなかったこと、歩めなかった人生を生ききることが自分の弔い。


父がどんな思いで逝ったのか、近づけたように感じたのは、子どもをもってからだった。我が家に仏壇はないが、毎朝父に手を合わせ話しかける。父はすぐそこにいて、私や娘たちを見守ってくれていると、今でも私は確信している。私は一般的な愛は信じない、でも父から私達への愛と、わたしから娘たちへの愛は、絶対的に信じている。


読書が終盤になったころ、私はふいに、娘の寝かしつけによく口ずさんだ、自作の歌を思い出した。ずっと忘れていた短いフレーズだった。なんで今なんだろうと思ったが、おそらくまた、私は父を弔っていたんだろう。そして私たちは順送りなんだよと、教えてくれているんだろう。


>亡くなった人でも救うことはできる。私たちが悲しみ抜いて、きちんと生き抜くことができるなら。それを手助けしてくれるのが、国際霊柩送還士達の仕事なのだ。

エンド・オブ・ライフ(佐々涼子)

筆者は、看護師である友人から、自分自身が余命わずかながん患者となったこと、最後の共同執筆をしてほしいことを告げられた。
7年間の軌跡をまとめつつ、肉親も含めた様々な人たちの自宅介護を追う。
 
わたしはたぶん、比較的生き死にに接する機会が多い日々を過ごしてきたのだと思う。施設で働いたこともあるし、父も長く病んだ。それに高齢者の多い地区にも住んでいた。でも、そのことと、実際に自分が余命を見据えて生きることとは全然違うんだろうな、と、読みながら考えた。
「体が変わったら自分自身も変わってしまったんですよ」
訪問看護で週に何人も看取るような日々を送ってきた友人Mさんは、診断を受けてからの心情の変化を、こまかに語っている。行動も変わる。そこを丁寧に追っているところが、とても読みごたえがあった。
日々の濃密さも、優先順位も、恐れの変化も。
 
そして、これは自分も実感があることだけれど、亡くなる人は残される人に贈り物をして行く。どんな形にせよ、どんな関係性であっても。私も人がなくなるたびに、いろんなプレゼントをもらってきた。みなさんもきっと、思い当たるだろう。人はバトンを送ってるんだ。
 
この本に限らず、死をテーマにノンフィクションをまとめる機会が多かった著者が、あとがきで述べている。
>私たちはだれも、死について本当にはわからない。もしかしたら、生き死にはただの概念で、人により場合により異なっているのかもしれない。
>ただ一つ確かな事は、一瞬一瞬私たちはここに存在しているし、別の表現をすれば一瞬一瞬死んでいるということになるのだろう。
これってとても納得のいく表現だ。人は生きてきたようにしか死ねないし、時間は伸びたり縮んだりしながら、生も死も内包している。バトンのつなぎ方を考えさせられる本だ。

コテンラジオ 教育の歴史の回を聴いて考えたこと

ランニングや家事のお供として、ポッドキャストでコテンラジオに親しんでいます。『25 教育の歴史』シリーズ12回では、各国で公教育が誕生し現在の形を作っていく、その前段階までのまとめをしています。コテンラジオの3人組は、人物のストーリーを軸にしたり、プログラミングになぞらえたりするのがとても巧みで、歴史を興味深く聴けて、ついつい学んでしまう、という面白い仕掛けです。

 

ルソーが理論を語り、ペスタロッチが不遇の中実践を重ねます。それぞれが人生をかけて行動し、後にバトンを渡していく。逮捕されたり、心身を壊したりしながらも。

生前は、評価、賞賛されて拍手喝采されるわけでもなく、挫折や不遇、苦悩の中で死んでいる事が多い。

なのに、彼らが与えた影響は僕たちに「直接的に」影響を与えているのはなぜか?

 

歴史を俯瞰してわかることは、

死ぬ時に不幸だからその人の人生がダメなわけではないということ。

 

しかもバトンを渡している自覚すらない、究極的には、自分がそれを実現したくてやってるだけ、それなのに勝手に後の人がめっちゃ感化される。あまりにもその人が純粋にそれをやっているから。

バトンを渡すというよりも、落ちているバトンを次の人が拾い上げるような感じ(笑)

そして、触発されてその人もそんな風になっていく。

そして結果的に、1人1人が今の世の中の重要な要素を一つずつ積み重ねていく。

そのバトン渡しが歴史の醍醐味。

 

含蓄深いです。歴史を俯瞰する意義を見事に言語化されたて、おくればせながら歴史のひきだしを、作っていこうという気持ちになれました。

また、「そのバトン渡しが歴史の醍醐味」そのことを展開して、以下のようなことを考えました。

歴史の流れを人の一生になぞらえるとしたら、今現在実現したくて、重要と思えること、エネルギーを出せることに瞬間瞬間集中していくことで、

その時には結果は出なかったとしても、小さく生き死にを繰り返しながら、意図しなくても大きなうねりとなって明日にバトンをつなげていけるかもしれないな、と。振り返れば点と点がつながって線になって行けるって、そういうふうに表現できるのかもしれません。

 

そう考えたら、自分ができることをポジティブに捉えなおせるように感じます。

ともかく日々のログをとりながら、今できること、今エネルギーを出せることを積み重ねていこうと思えました。

 

夜明けを待つ(佐々涼子)

2012年に「エンジェルフライト国際霊柩送還士」で受賞して一躍世に出た。そのときに、旧知の知人が血縁にあたるということで、紹介していただいて読んだのが、佐々涼子さんの作品との出合いだった。そしてそれきり、著作に触れる機会はなかった。
 
つい最近Xで、これまでの作品をまとめた本が出版され、脳腫瘍で闘病中という記事を見て驚いた。本書のあとがきでも触れられているが、余命いくばくもないことを穏やかに見つめるようすがうかがわれる。
彼女はエンジェルフライトの後にも、訪問看護の現実や、余命宣告された人々によりそったルポルタージュ、それから東日本大震災や、移民・難民の現実など、生と死のぎりぎりのところを描いてきた。そうやって、少しずつ自分の生き死ににも覚悟ができていったんだろうか。闘病の中で、思索や感覚が深まっていくようすも、今回のエッセイ集におさめられている。ちっとも難しい言葉を使わずに本質を突く、すがすがしい文章だ。
時折はっとさせられる心持ちが描かれていて、自分もそれらについてひとつひとつ思索をふかめて、文章にしてみたくなった。しばらく佐々さんの著作、追ってみます。
 

傾聴について考えたこと

親についてモヤモヤと考えていることを、昨日少し上の世代の女性に聞いてもらえた。
表現を探して言いよどむ私を、彼女はきつくない視線をあてたまま穏やかに待ってくれた。
スマホに目を落としたりしない。分かるよ私もね、…と話を奪うこともない。ましてや、話の途中で口を挟むこともない。
こちらから「〇〇さんのお母さんはどうですか?」と聴けば、卑下するでもなく盛るでもなく、自然な自己開示をしてくれる。それを聞いて私はまた共感を深められた。
 
先日「こころの対話 25のルール」を読んで、つくづくと私たちは普段、対話チックな自分語りをしているなと感じた。以前から気になってはきたが、会話を奪うのももはや普通だ。SNSのコメントはそんなのばっかりだし、もちろん自分も陥っていることもある。
 昨日は聴いてもらえた。ありがとう。私も聴ける人になろう。自分語りに持ち込まず、結論を誘導せず、まとめず、理論に流れず。
 
そう思いながら今朝は母と電話して、おっかぶさってくる会話に、ついおっかぶせて、誘導気味になりました。やれやれ~~

こころの対話 25のルール

先日こちらにも書いた篠田真貴子さん(エール株式会社)が、休暇期間中に読んで心に響いたと紹介されていた本です。
究極的には、私たちのコミュニケーションの目的は「安心感」でしかない。安心感だけが、人を動かす。人がわたしに望むのは安心感だけだと肚をくくれば、聴くことの基本姿勢が変わりそうです。
この結論を五臓六腑にしみわたらせるために、一冊言葉尽くしている印象でした。
私達はよく「心理的安全が大事だ」といいますが、その安心感ってつまり、お互いに思ってることが言える以前に、そもそも自分の感情に気づける土台なんだと。それあってこそ視野を広げるられるのだと。
傾聴の基本のきとして、
「最後まで聴く。口でも頭でも、批判も評価も無しで聴く。 
 自分から聴くことで、周りのコミュニケーション環境を変えていける」
そりゃ耳タコだよ、言うは易しだけど難しい。でも、安心感というイメージを頭の上に浮かべておけば、少し近づけるように感じました。いろんな人と対峙してみようと思えました。
 
また、未完了のまま心に澱(オリ)となっているコミュニケーションが、今目の前のコミュニケーションを阻んでいます。投げたボールが受け取られなかったり、お互いに投げてばかりだったり、投げつけられたりそっぽむかれたり。
そんな「未完了のコミュニケーション」を清算するための手段が二つ提案されていました。一つは心がけられそうだし、一つは私にとって難しいことでした。でも後者について思いをめぐらせていたら、自分の中に意識していた以上の鬼が住んでいたことに気づけました。それはおーーきな収穫でした。
鬼退治の旅にまいろうや。
大切なことを、難しい言葉抜きで伝えてくれる本です。お勧めします。