悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

異質なもんを受け入れる

尾篭な話ですみません。

おかしなもので、下の娘はトイレ好きです。まあ今だけのブームにきまってるけど。

まだ日常的にはオムツなのですが、たまたまトイレで成功しようものなら「スゴイ!エライ!」とべた褒めしてもらえるので、何かというと座りたがるのです。

今夜も、お姉ちゃんがトイレに入った後、自分も自分もと補助便座をだしてきました。ときどきウンウンきばったり、おどけた顔をしたり、「こっちからおしっこでるの。こっちから○○○」と意味なく自慢したり・・・そして座り込むこと30分。もう出ないでしょ・・・といくら急かそうが、脅かそうが、褒めて気をそらそうが「ぜったい出る」の一点張りで ききません。

こんなとき自分(はは)をほめるのです。気が長くなったなあ・・・えらいえらい、と。

実に、結婚前・妊娠前の私に比べれば、物事の許容範囲がずいぶん広がったよな、と思います。以前の私は、まず能率第一主義。単純作業は いかに能率よくこなすか、に血筋をあげていました。物事を段取りよく、無駄を省いてこなしていくことが 頭の良いやり方だと信じて疑いませんでした。

部屋もシンプルが一番。白黒はっきり、グレーの部分は認めない。

そしてそれは、自分のペースで動いてくれないモノ、意のままにならないモノを排除する考え方でした。

でも結婚し、他人と同居し、そして子どもまでいるとなると、なかなか物事は自分の思うとおりに進んでくれません。むしろ 言ってみれば、日々これ、「なんでそうなるの?」「こうしてほしいのに」「なんでこうしてくれないの?」の連続です。それにいらいらする自分もいやで、・・・・毎日毎日そんなことを繰り返しているうちに、ある日気づいてしまった。

もしかして結婚したり 子どもを育てたりすることの意味って、異質なものをどれだけ受け入れていけるか、そのままの姿を受容できるか、ってことかもしれないなあと。もっと広く言えば、人間関係全般として ベストの形ってそういうものだと思うし、私にとっての結婚生活・子育ては それを学ぶツールなのかもしれないなあ、と。

もちろん、みんなが皆にとって というわけではありません。そんな難しい問題じゃなくって、絶対愛としてご主人や子どもを受け入れてますーっていう人もいると思う。そしてそれが一番だと思う。それから、子どもがいなくても結婚していなくても、他人を受容する能力に長けている人(別なものをツールにしてる人)も多いと思う。

でも、私はそういう部分がひどく欠けている人間で、だからこそ こうやってイライラしたり、逆に良い面を見つけられたり、そんな毎日が必要なんだと思う。

結婚していなかったら(子どもがいなかったら)あんなことも こんなことも 出来たかもしれないけれど、まあ私にとっては これが必要なんだろうな、と。怒ったり笑ったりしながら、牛歩の歩みで成長しようと思うのです。

しゃがんだ足が お尻の重みですっかりしびれたころ、娘はやっと自分で納得して、「やっぱでなかった」とトイレを出てくれました。(はは)