もったいない、の精神
いつも良くしていただいているおばあちゃんが、家のそばに薪になる木があるからもっていけという。
大きくなった木の枝を、息子さんが払って、手ごろな長さに切りそろえてある。自分もみそ豆を煮るときには使うが、たくさんは使わない。
場所を確認すると、道路から少々距離があるし、背負い上げなくてはいけないから、少々気が重くなった。
でも、おばあちゃんはこういったのだ。
「このまんま朽ちていくじゃ、もったいないからさあ」
またある日、借りている田んぼのそばを歩いていたら、柿がたくさん干してあり、いつも声をかけてくれるおばあちゃんがいた。
「たくさん干しましたね、がんばりましたねえ」「いやあ、すっかり駄目になったよ」などと会話した。
その家の庭先には、いつも豆がみざるに入れてあったり、何かが干してあったりする。
おばあちゃんは80歳を越えており、あんたみたいな若い人に、元気をもらうだよ~と笑ってくれた。
「この陽気じゃあ、乾いてくれるか分かんないけど」と、おばあちゃんは言った。
「もったいないからねえ、それだけだよ」
その世代の方々が、どういう食糧事情の中を暮らしてきたかということは、どんなに話してきかせていただいても、ホントには理解できていないように思う。
おばあちゃんがそれだけの量の干し柿を食べることはないだろう。それでも、生り年にたわわに実ったものを、そのままにしておくことはできないのだろう。
また別のおじいさんが、ある日我が家に渋柿をたくさんくれた。百目柿という、渋柿のうちでも一番立派なものだ。どうやら、空き家になっている知り合いの家から、いただいてきたものらしい。
おじいさんは、3日に分けて、とってきたほとんどの柿を、「もってって食べてくりょ。俺ゃー食わないから」と、我が家にくださった。
そんなに食わないなら、取ってこなければいいのに?
いや、おじいさんもまた、「もったいないから」捨て置けなかったのだろうなと思う。
もったいない、の精神を、いろんな形で教わっているなあと思う。
山里には、もったいないの気持ちがたくさんあると思う。例えば・・・こんなおぞい野菜、人にあげたり市場に出したりはできない。こんな山のもの、ほしがる人がいるもんだかどうだかなあ。
でも、もったいないなあ、と。
獲れすぎた渋柿。不揃いな野菜。不恰好に編んだつるかご。
そんなものを、それと承知で売り買いする「もったいないの店」できるといいなあ。などと考えました。