悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

「生きる歓び」保坂和志 より

2月3月に書いていた小説は四月にいろいろ用事があって中断していたが、これで5月も書けなくなったと思った。でも状況を引き受けてしまえば、谷中の墓地で散々感じていた飼うことの手間に対する躊躇は関係なくなっていたし、小説の中断なんかも全然関係なくなっていた。・・・

これでしばらく子猫の世話にかかりっきりになることが決まり、その間自分のことは何もしない。できたとしても私はしない。大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、じつは一番充実する。・・・

人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。人間が猫にかかりきりになるというのを、人間が絶対だと思っている人は無駄だと思うかもしれないが、私はそう思っていない。トキのヒナが生まれたのはこれから3週間ぐらい後のことだったが、トキのヒナも鼻風邪で顔がグチャグチャの子猫も同じだ。

というか、「現に目の前にいる」という一点で子猫の方が私には重要であり、同様にトキのヒナの飼育をしている人にはヒナが重要だろう。

二年半前にウチの一番若かった猫がウイルス性の白血病を発病して、一か月その世話だけに使ったとき私は、自分以外のものに時間を使うことの貴重さを実感した。

そう書くとすぐに私が常時それを望んでいると誤解する人が必ずいるけれど、望んでいるわけではない。そんな時間はできれば送りたくはない。逃げられないから引き受けるのだ。そして普段は横浜ベイスターズの応援にうつつをぬかしていたい。

他者のために時間を費やす、というと、偽善的に聞こえるように思うが、

たぶんその≪充実≫を感じることができるぐらいに、歳をとったということだと思う。

若いころは、自分のために時間を使いたくてたまらなかった。自分しかできないことは何か?他の人でもできることは、できれば人に任せたい。自分が向上したい。自分が、自分が、と。

今は、他者がいてこその自分だということを、よく考えるようになった。

「現に目の前にいる」命(他者)を大切にすること、

大切にするということは、親切にするということ、

そんなことを考えさせられた。

「生きる歓び」の中では、拾われた瀕死の子猫の、命の輝きが描かれている。

手元の文庫本は平成15年とあるが、作者のHPで、片方を失明していたというこの猫の写真を見つけて、ふと嬉しくなった。