ハリー・ポッターシリーズ再び
親子でハリポタにはまったのは、すでに4年以上前になるのかと思うと感慨深い。最近きっかけがあって、また読み返しはじめている。全11冊を読み進めたときには、やはり先が気になっていたので、読み飛ばしてしまった部分もある。熟読もまた、あらたに理解が深まって面白い。
第二巻、「ハリーポッターと秘密の部屋」に、こんな場面があった。
主な舞台である ホグワーツ魔法学校は全寮制。新入生は入学時に「組み分け帽子」をかぶる儀式を経て、どの寮に入るかを決められる。4つある寮はそれぞれ特徴的で、ハリーは悪の組織の息がかかっている「スリザリン」に行くはずだったのではないか、と悩んでいる。
「それじゃ、僕はスリザリンに入るべきなんだ」ハリーは絶望的な目でダンブルドア(校長)を見つめた。
「組み分け帽子が、僕の中にあるスリザリンの力を見抜いて、それで・・・」
ダンブルドアはまた口髭をいたずらっぽく震わせた。
「それでも組み分け帽子は君をグリフィンドールに入れた。君はその理由を知っておる。考えてごらん」
「帽子が僕をグリフィンドールに入れたのは」ハリーは打ちのめされたような声で言った。
「僕がスリザリンに入れないでって頼んだからにすぎないんだ・・・」
「その通り」ダンブルドアがまたニッコリした。
「それだからこそ、君がトム・リドルと違う者だという証拠になるんじゃ。ハリー、自分がほんとうに何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ」
自分がなりたいとあこがれる姿があっても
たとえば容姿。うまれながらの能力、体力。金銭的な問題。あきらめてしまえばそこまで。
手持ちのコマだけじゃなく、選択をする行為が重要。
現在の自分の姿は、積み重ねてきた選択の結果だと、あらためて頷ける。そしてこれからの人生も、能力や年齢ではなく、ひとつひとつの選択で形作られていくのだと、つくづく思う。
さらりと真実を提示するJ・K・ローリング、おそるべし。