悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

テラ・インコグニタについて

画像
村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」を再読している。人に貸したまま手元から失くしてしまって、折に触れて気になってはいたのだが、やっと読み直す機会を得た。 それほど新しい本ではなく、著者が40代後半で世に出した本である。つまりは今の私と同じ年齢のころ、ということになる。 調べてみたらちょうど10年前に、この本について記事を書いている。シンプルで練り上げられた文章、という印象は今回も変わらない。読んでいて心地よく、すっと腑に落ちる文章だと感じる。村上春樹さんがこつこつと自分の文章スタイルを練り上げていった、ひとつの到達点なんじゃないかと思う。こんな文章を、私も書きたい。   でも残念ながら、自分の文章構成力、または説明能力は落ちているなあと、感じることがこのごろ多い。患者さんに対しても、うまく説明できたろうかと反省する。 少し長いが、走るための筋肉(筋力)についての一場面を引用する。  たとえ絶対的な練習量は落としても、休みは二日続けないというのが、走り込み期間における基本的ルールだ。筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。注意ぶかく段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説明すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。…我々の筋肉はずいぶん律義なパーソナリティの持ち主なのだ。こちらが正しい手順さえ踏めば、文句は言わない。  しかし負荷が何日か続けてかからないでいると、「あれ、もうあそこまでがんばる必要はないんだ。あーよかった」と自動的に判断して限界値を落としていく。筋肉だって生身の動物と同じで、できれば楽をして暮らしたいと思っているから、負荷が与えられなくなれば、安心して記憶を解除していく。 なるほどと頷かされた箇所だ。この「ようがす」のくだりは、何度か患者さんにも引用してきた。でも今改めて思う、脳細胞もきっと同じことが言えるんじゃないだろうか?よく言われることだが、スマホやパソコンの変換機能、辞書機能を頼るようになってこの方、漢字はめっきり書けなくなった。それと同じように、筋肉と同じように、話す力聴く力、インプットとアウトプット、そのすべての能力(脳力)は、勤勉な使役動物と同じような性質を持っているんじゃないだろうか? そう考えると、どんなにつたない言葉でも、日々訓練して文章に書き、口に出していくことが大事なのかもしれないなと、改めて感じた。整体師という生業をできる限りまっとうしたいという願いのためにも。 しかし何はともあれ走り続ける。日々走ることは僕にとっての生命線のようなもので、忙しいからといって手を抜いたりやめたりするわけにはいかない。もし忙しいというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由ならトラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。