百姓の、精神
近所のばあちゃんの畑仕事を、手伝った。畑と言ってもヤマの「カイタク(開拓)」で、じいちゃんや義父母といっしょに、荒れ地をたがやし、石垣を積んで、お茶や野菜を育ててきた場所だ。
山道を登って行かなくちゃいけなくても、じいちゃんがいなくなって しんどくなっても、捨て置けない場所だ。
ハタケに着くと、ばあちゃんはまず小枝を集めて、コヤで湯を沸かした。もうもうと煙が立ち込めるので、「囲炉裏で火をつけるっても、こういう感じなの?」と聞いてみると、「ううーん(肯定)。そいだもんで、家がいたまなくて良いっだ」という。でも木が乾いてさえいれば、煙がたっている時間は思いのほか短い。そのあとは火も安定して、ばあちゃんは自在を操ってやかんを上手にかけた。これでよし。
先日まむしを見かけたという場所を慎重にさぐるが、いなかった。まむしはふだん、畳一畳ほどを動かないものだと教わった。
石垣の草をていねいにとる。取った草は、集めて広げておく。乾いたところで燃やせば、草の種も絶える。
さらにその、半分いぶしたような燃え残りを、ばあちゃんは袋に詰めて大事に持ち帰った。これから白菜の苗を定植するときに、根にかけるのだという。
「だから、ほんとに捨てるところはないだよ。どこまで欲をかくもんだというかもしれんが、ほんとの・・・これが、百姓の、精神。」
沢からひいてきた水を、集めた小枝と間伐した杉の焚き木でわかして、そこで取れたお茶を飲んで。
実に無駄がないなあと思う。そしてそれが、わずか50年ほど前までの生活だと思う。
持ち込んだパンやヨーグルトのごみは、ビニールが多くて燃やすことができない。それがじつに、不似合に感じた。
帰りがけ、「ちょっといたずらしていこう」と、ばあちゃんはサトイモのハタケに入った。そしておもむろに一株抜き、初物のワセイモを土産にしてくれた。
その場で土やヒゲ根をすっかり落としていけとも教わった。イモの葉を広げて皿にして持ち帰った。
「おかあちゃんはよくこうして、葉っぱに包んで、来た衆にくれてやったもんだ」
とれたてのイモは、皮もこそげるぐらいでよく剥けた。その晩は美味しい煮っ転がしをいただきました。