悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

山男Nさんとの午後

静岡の中山間地で暮らしていたころに出会い、親しく行き来させていただいた方を、久しぶりに訪ねました。Nさんは70代にさしかかろうという年代で、長く林業に携わっていました。まだまだ現役で山の管理や動物の世話に取り組んでいます。

前の仕事が長引いて少し遅れましたが、Nさんは薪ストーブの温かみの効いた台所で、のんびり寝て待っていてくれました。お茶をいただきながら近況をしばらく話した後、このごろは普段留守にしている友人宅の縁の下に、小動物が入って「いたずらしてしょんない」ので、ワナをしかけて見回りに行っているんだ、と聞きました。タヌキやアナグマ用の小さいワナと、シカやイノシシ用の畳3畳分ぐらいのワナと、両方見回っているのだと。

「見せてください」 「おお、それじゃ行かっざあや」ということで、Nさんはゆっくりと地下足袋のコハゼを留め、私にも長靴を貸してくれて、相棒の猟犬を軽トラックの荷台に乗せました。この甲斐犬はNさんのよき相棒で、このごろシカ猟にも役立つようになったということです。猟犬というと獰猛なようですが、普段はおとなしい犬です。
※※ちなみにNさんはシカを仕留めるのに、銃は使いません。ナイフを使うのも、捌く時だけです。軽トラックにはいつもロープが載っています。この捕り物帳話には、いつも絶句させられます。

クマザサの生い茂る林道をしばらく進みました。途中でNさんは「あの木を見てみろ」と斜面を指差しました。見ると、幹の樹皮をはがされた合歓(ネム)の木でした。どうやら鹿の仕業で、食べ物の少ない冬の食糧でした。「鹿は何でも食っちまう。喰わないのは馬酔木(アセビ、毒あり)だけだ」

何度かカーブを曲がったところで、道端に動くものがありました。じっと気配を殺していますが、確かにそこにいます。近づくとそれはアナグマでした。慌てて斜面をかけのぼっていきますが、Nさんはすかさず荷台の犬を放ちました。「行けぇ!」と、いつになく低い声の指示を出します。
すばやく後を追う。二匹の動物の声が道の前方に移動しました。次のカーブの先で、犬は頭を左右に振って、暴れるアナグマに噛みついていました。しっかりと急所をとらえています。
Nさんは「よーしよし、よくやった。たぶんこいつだな、縁の下で悪さしてた奴は」Nさんは荷台から長い金属棒を下ろして近づいていきました。狙いを定めてとどめをさします。すぐ近くに棒を振り下ろされても、犬は全く動じません。「加勢がきた、ぐらいに思ってる」とNさんは言います。私は少し離れているしかできませんでした。

友人さんのお宅を含む何軒かの集落は、「人里離れた」という表現がぴったりな、西に開けた山の斜面にぽつりとありました。家のすぐ裏手に、先祖代々のお墓があります。たぶん友人さんは、お墓と仏壇がここに残してあるので、時々やってくるのです。
最後まで西日が当たる場所に、大きな桜の、朽ちた切株がありました。この山奥の集落にまだ人の歓声が響いていたころは、さぞ見事なシンボルツリーだったことでしょう。根元にはお供えの痕跡もありました。Nさんはその朽ちた中心に、新たな桜の苗木を植えて、シカに食べられないよう網をはったそうです。「(木の真ん中に)よく植えられましたねえ」と私が感心すると、「そりゃ山仕事をする人間がやることだもの」と笑いました。そうやって、命を継ぐことも命を絶つことも、真正面から手をかけ手をくだすことを、この人は何十年も続けてきたんだなあ、と考えさせられました。

帰り道では柚子の木に車を寄せて、私に2つとかあちゃんに2つ、お土産を取ってくれました(もちろん剪定ばさみもちゃんと車に載ってます)。柚子はとげの多い木です。ハンドルを握るNさんの手には、うすく血がにじんでいましたが、Nさんはまったく気にする様子がありませんでした。