悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

言語化の魔力(樺沢紫苑)

これも再読だけど、また考えたことを書いてみます。

起きてほしいことがベストではなく、起きたことがベストといわれます。

辛い経験をしても、実は後から振り返ってみればそれがターニングポイントになっていて、物事が好転したんだ、ということはよくあります。
それは、「失敗」と思ったことが、失敗なのか、それとも経験を積んだといえるのかっていう受け止め方の違いと似ている。そしてそこを突き詰めると、嫌だとかよかったとか、困ったことだとか、そういった判断や感情はそのまんま受け入れるものの、ふりまわされないのがいいんじゃなかろうか、と思う。

 

少し話が飛ぶけれど、最近コテンラジオというポッドキャストをよく聴いています。歴史の上では、ある事象なり人物の行いが、最初に意図したところとはずいぶんかけ離れて、後世に影響していく、ということがよく語られます。


例えば宗教革命。マルティン・ルターははじめ、宗教学者として「ここ、はっきりしないからもうちょっと宗教論的に議論しません?」と口火を切ったらしい。学術的な興味から(あくまで一説です)。でもそれが、過敏な反応を引き起こして、当時の印刷技術の広がりともあいまって、いろんな層の階級に広がっていきムーブメントを起こした(らしい)。

 

それと関連して考えると、私達がある出来事に対しどう反応して、どういう行動を起こしたとしても、その結果をコントロールするのは難しいことが多いんじゃないか、と思うんですね。大局的にみると。
だから肝要なのは、あくまでポジティブに物事にあたり、淡々と今良いと思うことを積み上げる、という姿勢なんじゃないかなと思う。


言語化の魔力」の中に、ポジティブ心理学の「ポジティブ」という言葉について、納得できる説明がありました。

能天気に楽観主義でいることじゃなくて、むしろ「中立的」判断や感情を過度にさしはさまず、あるがままに捉えるということ

例:コップにまだ水が半分「も」残っている→楽観主義、ニセポジティブ
コップに水が半分「しか」ない→悲観主義
コップに水が半分ある→中立的な意味合いのポジティブ

がっかりしたり凹んだりするのは感情だから、それ自体は否定せず、でも振り回されず、淡々と「私こういうことで凹んでるんだなあ」と受け入れて、認めて、そのうえで手元からできること(影響の輪の中にあること)をする。それに尽きるんじゃないかなと、この頃考えています。