悠々闊歩

はるかな道を悠々と、闊歩していきます

10月30日 しまだ大井川マラソンに参加

7月に「あ、フルマラソンに挑戦しよう」と、天啓のように(笑)思いつきました。もちろん、いくつかきっかけになった理由はありますが。そして、参加しているオンラインサークルで「めざせフル完走!@しまだ大井川マラソン」というイベントを立てました。ともにそれぞれトレーニングして、本番で会いませんかというものです。
この時点ではようやく5キロ程度が走れて嬉しい、ぐらいのレベル。今思えば、よくも宣言したものだ。。。

それまで睡眠スコアと万歩計にしか使っていなかったスマートウォッチが、突然活躍し始めました。マラソン本を参考に徐々にトレーニング距離を伸ばしていき、月間走行距離が初めて100キロを超えた時には震えました。一緒にレースを目指す方からのコメントや、応援コメントに支えられながら壁を越えていき、昨日という本番を迎えました。

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メッセンジャーグループでメンバー達とやりとりしながら、9時のスタートを待ちました。島田の街中では沿道の方々に手を振って応援していただき、そのあとはひたすら大井川河川敷のコースを走ります。
レーニングではハーフ(21キロ強)までしか走れていなかったし、しかも最後はボテボテでやっとこさゴール。だから、長距離を走る筋力が絶対的に不足している実感はありつつも、「ハーフが走れていれば本番は走り切れる」という本の記述が心の支えでした。ただ、その際(21 km 走った後)右臀部~大腿部の痛みが少し長引いたのは気がかりでした。

折り返し地点の少し前からは、頭の中でメンバーのゼッケン番号を繰り返し、ずっと反対走路を見ていました。手を振れたあとはうれしくて元気が出た!折り返しで千葉真子さんにハイテンションで手を振りました(笑)
しかし、ハーフを過ぎたあたりから、右足が痛み出しました。腹を据えて力を分散させたり、腕を振って足の負担を減らす走り方にしてみたりと試しましたが改善しません。

村上春樹さんのマラソン本には、カラダの各所が順に不満を申し述べていく…みたいな記述がありますが、もうほんとに右足オンリー。でも足裏、もも側面、鼠径部と、しまいには鈍痛も起きてきて、35キロまでは先が見えずに歩いたり走ったり。だんだん歩くこともできなくなっていきました。


コース中に歩くのは、こんなにもがいて、走りたいのに走れない状態なんだと。がんばれ~~と声をかけていただくのがありがたく、でも衝撃が与えられない状態で足が上がらない。途中で何度か嗚咽しかけてはこらえました。エイドステーションで拍手で送ってくれるスタッフに「痛いんです」と訴えて泣きたかった。

自主的に沿道であめやゼリーを差し出してくれる人がいました。私が立ち止まって苦悶していたら、見知らぬランナーが「これ使いな」とエアーサロンパスを差し出してくれました。
37キロ、あと5キロという地点に、地元の保育園や放課後こどもクラブからの応援メッセージがありました。弱ったとき、人の励ましがこんなにも沁みるものかと知りました。立ち止まったらもう歩き出せない足でしたが、なんとか写真におさめました。


後ろから、歩いて追い抜いていく若者がいました。「1,2,いちに。1,2,いちに。」とリズムよく、自分を励ますように小さく声を出していきます。痛みがあるのはもう当たり前だ、それがなんだっていうんだ、いたわりつつもそれはもうそこにあるものとして、一歩一歩すすんでいこうと教えてくれました。1,2,いちにと、私も歩き出したら、しばらくたったら、痛いけどまっすぐ足が出ました。

ゴールになっている会場とゴールラインが見えてきて、トラックに入るとき、ふり絞って走り始めました。足を浮かせることがこんなに苦しいと知りました。でも夕日(もう夕日!)を受けつつトラックを回るときの心持は、忘れたくない財産になりました。

じつはこのしまだ大井川マラソン、元オットが30代のころに参加したレースでした。今年自分が申し込んでから、ああそうだった、と思い出しました。
私は二人の娘とゴール地点で待って待って。オットの姿がみえたら長女が飛び出して一緒に走りだしました。「とーと、〇〇ね、金メダル作ってきたんだよ」と訴えながら。そのあとを私も二女を抱っこして走った。幸せな家族の思い出です。その光景を思い出して、実は何度も練習中に泣きました。
元オットの後をたどりたいわけじゃないし、もちろん未練があるわけでもなくて(笑)ただ何かを乗り越えたなあ、という思いです。実際には、昨日の帰り道に島田駅のホームでこのお話をメンバーさんにして、彼女が「乗り越えたねえ」とまっすぐ見てくださったときに、乗り越えられました。
いろんな人に助けられた経験ができました。50過ぎて、こんなことに挑戦できて幸せです。